2023.06.19
【経歴】
昭和14年生まれ・埼玉県出身
松井如流に師事
昭和56年サロンドートンヌ展入選
香葉書道会主催
産経国際書会運営委員
【すみのあとスタッフより】
遠藤様、何度も訪問させていただき誠にありがとうございました。また、貴重な書道具をご売却いただきまして、厚く御礼申し上げます。現役の書道家である遠藤先生から書道に関するお話も聞かせていただき、大変勉強になりました。及ばずながら価値ある書道具を次世代に伝えるよう、一層努力させていただきます。
書道具は大変種類が多く、価値を判断することが難しいジャンルでもあります。
銀座古美術すみのあとは東京美術倶楽部の交換会に所属している古美術商であるため、
リサイクルショップと違って高価な消息・手紙の価値を見極めることができます。
また、創業40年の実績があるため、多くの顧客、業者と精通しており、国内・国外のオークションでの販売実績もあります。
そのため、販売ルートも非常に多く、高価買取が可能です。
ご自宅に眠っている価値のわからない消息・手紙がありましたらお気軽にご相談ください。
【経歴】
昭和14年生まれ・埼玉県出身
松井如流に師事
昭和56年サロンドートンヌ展入選
香葉書道会主催
産経国際書会運営委員
【すみのあとスタッフより】
遠藤様、何度も訪問させていただき誠にありがとうございました。また、貴重な書道具をご売却いただきまして、厚く御礼申し上げます。現役の書道家である遠藤先生から書道に関するお話も聞かせていただき、大変勉強になりました。及ばずながら価値ある書道具を次世代に伝えるよう、一層努力させていただきます。
消息、手紙は古来より伝達手段として長年使用されてきました。現在は紙に書かれたものを手紙と呼びますがかつては消息、書簡、尺牘など様々な呼び名があり我々の生活に密着したものでもあります。ここでは日常的に使用されてきた手紙、葉書の売却のポイントについて説明します。
消息は有名人が書いたものや文面の内容によって高値で取引されております、例えば明治維新の幕臣や西郷隆盛、木戸孝允らの消息などがそうです。また手紙は古い物であれば消印、切手なども評価の対象になります。
絵葉書に関しては明治~戦前頃までが査定対象となります。明治初年の葉書は貴重なレアとして高値がつき、皇太子成婚などの記念関係の葉書は高値で取引されております。消息、手紙、絵葉書はもともと高価で売っていたものではありませんが当時の文化、歴史の資料として必要とされている側面があります。
古写真とは幕末期に欧米からその技法が流入され当時は横浜を中心に上野彦馬、横山松三郎など職業写真家たちが当時の外国人、侍、婦人らを撮影し記念に写真館で撮影したり当時の風景などを撮影したものを名刺判やキャビネ判を台紙に貼り観光土産として販売されていました。現在古写真は当時の面影を残す資料として注目されております。
消息、手紙は定価で仕入れたことがない方がほとんどであるため値段の設定が難しくご自身で売却することは難しい一面があります。古美術店で買った著名人の消息、手紙ならば相場は存在しておりますが書道家、文人からいただいた消息、手紙、色紙などは相場を測ることが難しい面があります。専門業者に相談して相場を聞くことが近道です。
絵葉書は明治~戦前の葉書が買取り対象になりますので時代も若く年代が古いから査定額があがる骨董品とは査定の方法が変わります。絵葉書は著明な作家が作成したものより軍隊の記念、皇室の婚儀などエポックメイキングを表象したものが高額査定につながる傾向にあります。また絵葉書は失われた風景などが高評価になる場合もありますので判断するのが難しい面もあります。絵葉書は専門業者に査定をお願いしましょう。
古写真は幕末に欧米から輸入され当時は大変高額なものでした。また現在古写真を売る際には大正時代よりは明治時代、明治時代よりは明治初年など査定額が細かく分類されており、年号がない場合もあり素人が古写真を判断することは困難です、また上野彦馬、内田九一など当時の有名写真家が撮影した写真は高額査定も可能です。専門業者に査定してもらいましょう。
小林かいち原画 | 300000~500000円 |
東宮御婚儀記念 | 150000~300000円 |
呉海軍工廠進水記念 | 150000~250000円 |
小林かいち木版画 | 5000~100000円 |
中華民国成立記念 | 50000~100000円 |
朝鮮群山絵葉書 | 20000~50000円 |
大連名勝絵葉書 | 30000~40000円 |
青函連絡船竣工記念 |
20000~40000円 |
杉浦非水 | 5000~30000円 |
中原淳一 | 3000~10000円 |
内田九一撮影明治期ガラス湿板共箱 | 50000~250000円 |
上野彦馬撮影明治期ガラス湿板共箱 | 50000~200000円 |
内田九一撮影明治期鶏卵紙 | 10000~50000円 |
上野彦馬撮影明治期鶏卵紙 | 10000~45000円 |
下岡蓮杖明治期鶏卵紙 | 10000~40000円 |
玉村康三郎 コロタイプ | 3000~20000円 |
侍の図 明治期ガラス湿板 | 10000~80000円 |
満州派遣写真帖 | 30000~80000円 |
李王家写真帖 | 40000~60000円 |
北庭筑波撮影明治期鶏卵紙 | 5000~50000円 |
第二次大戦写真帖 | 5000~20000円 |
古写真は明治期より存在する比較的若い骨董品になります。時代の古さも大事ですが写真の場合誰が撮影したか?対象は誰か?などが高価査定のポイントになります。
はい、鑑定できます。手紙、消息、色紙全般に言えますが署名だけでは作家がわからないことが多いと思います。専門業者に査定してもらいましょう。
業者によって異なります、事前に電話、メールで確認しましょう。
もちろん奇麗な状態のほうが高く査定されますが内容によっては汚れていても買取り可能な色紙、手紙もあります。専門業者に査定してもらいましょう。
絵葉書は戦前頃に作成された観光地土産のものが主流ですが軍隊が記念で出していたものや満州国など今は失われた風景、施設などが高く査定されます。
絵葉書は郵便物であり、郵便局の開設とともに葉書の歴史も始まります。郵便局は前島密の指揮により1871年に官営の事業として始まりました。普段使われている葉書は1873年、絵葉書は1900年より存在しております。
通常の葉書と違い私製絵葉書は図柄も珍しく風景図、美人図などが当時は人気を博しました。当時はテレビはおろか写真もない時代ですので風景図は当時の観光案内に似た立ち位置だったのかもしれません。
その後日露戦争の記念絵葉書が人気となり絵葉書専門店が多く開店し絵葉書は大衆化していきます。
因みに明治40年頃までの絵葉書は発行年が書かれておりませんが通信欄の真ん中にある線がないのでそこが年代を特定する手がかりともなります。
時代が進み大正時代になると竹久夢二、蕗谷虹児らの大正浪漫の図柄が大流行し現在の美人図にも影響を与えるほどになります。またこの時代はアールヌーボー様式など革新的な図柄も多く当時を偲ぶ資料としても重要な存在にななります。
昭和初期には皇族関係の記念葉書が大流行します。少女雑誌、婦人雑誌などに寄稿していた作家の葉書も人気を集めます。また文学小説に挿絵を寄稿していた岩田専太郎も有名です。特に小林かいちの絵葉書、封筒、カレンダーはその印象的な作風から「京都のアール・デコ」とまで呼ばれ大変な人気を博し贋作も当時から存在しております。
戦後も中原淳一の新時代を切り開くモダンな図柄に励まされた少女たちも多く絵葉書は時代を写す大衆性の娯楽、資料として興味深いものでもあります。
横山松三郎 1838~1884 東京 下岡蓮杖に師事。蓮杖の紹介で開成学校の頭取をガラス湿板で撮影する。明治4年皇居の撮影を行う。明治14年銀座に写真石版社を創設する。
下岡蓮杖1823~1914静岡県
下田で絵師を志し、その後ハリスの通訳であるヒュースケンから写真技術を学ぶ。1860年に横浜の弁天通5丁目横町で写真館を開業する。臼井秀三郎、桜田安太郎、鈴木真一らが入門する。
青山三郎1837年生名古屋 名古屋において軍事演習、海軍観艦式などを撮影する。
味田孫兵衛 1809~1885名古屋 眼鏡商からオランダ人医師に写真の技法を教わりガラス湿板の撮影に成功する。
天田愚庵 1854~1904年静岡県 戊辰戦争で行方不明になった家族を探すために写真技師となる。著書「東海遊侠伝」
宮内幸太郎 1872~1939 東京 中島待乳に師事。明治31年に本郷で開業。東京美術工芸展で審査員を務める。
五十嵐興七 東京 明治38年小村寿太郎がポーツマスに行くのを利用しシアトルに渡り写真館を開く。その後帰京し東京で写真館を開く。
成井頼佐 1858~1902 大阪 対州藩士。明治21年京都に写真場を開業。明治28年に第四回内国勧業博覧会に婦人茶席の図を発表する。
石川丈衛門 1842~1903 大阪 代々両替商の家に生まれる。明治4年頃から舞妓の写真を販売する、その後反物商になる。
石津芳三郎 神奈川 川崎で「貸し写真場」をしていた。明治24年から日本写真委員会、大日本写真評議会で評議員を務める。
上野彦馬1838~1904 長崎 広瀬淡窓の私塾に入塾。高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士を多く撮影するが舞妓などの風俗写真も多く存在する、撮影の半分以上を西洋人に費やす。
臼井秀三郎 横浜 下岡蓮杖の門下。横山松三郎に続き二人目の弟子。明治17年頃に横浜写真社を営業する。
内田九一 東京1843~1875 長崎で生まれる。神戸で写真技術を教え大阪で開業する。慶応2年に大阪から横浜馬車道に転居する。明治6年明治天皇を撮影する。